Interview
――佐藤監督といえば『カイジ』などマッドハウスの顔ともいうべき作品を制作されてきたわけですが、この会社との関わりはいつからなのですか。
佐藤 最初からマッドハウスではなくて、元々はキティちゃんで有名なサンリオにいたんです。その後、別の会社に行ってまた出戻ったりしつつ、アニメーション部門として存在していた「フィルム部」が解散になって、ぎゃろっぷに移ったんですね。そこで多岐にわたって仕事をとっていたら、ぴえろさんで『バリバリ伝説』というオートバイ物のOVAを出向のかたちでやることになって。そのオートバイつながりでマッドハウスの『風を抜け!』に参加したんですよ。
――ああ、『風を抜け!』の原作がオートバイ漫画だったから。
佐藤 そうそう(笑)。「『バリ伝』のメンバーだからやってよ」みたいな話で、プロデューサーの佐藤智子さんに誘っていただいて。当時はスタジオの『風を抜け!』ブースの真ん中にオフロードのモトクロスバイクがドーンと置いてあったんです。現物をホンダさんから借りてきてね。「終わったら安く譲ってくれないかな」とか。そんな話をみんなでしながら(笑)。仲良くやっていましたね。
――そのとき会社はどこにあったんですか。
佐藤 南阿佐ヶ谷の芝萬ビルです。でも、その前に消防署の裏手だかにスタジオがあった時代もあるんですよ。それが最初期で、その時代は知らないんですよね。で、芝萬ビルのスタジオに僕が入って以降……37年(笑)。
――マッドハウスと一緒に(笑)。
佐藤 そうなんですよ。ずいぶん経っちゃったなと思いつつも、過ぎてしまえば早かったなと。
――37年間、他スタジオに移る、という気持ちはなかったんですか。
佐藤 あっちでもこっちでも、結局やることは同じだなと思って。僕は絵柄の好き嫌いがあまりなくて、何を描いても楽しくやっちゃうタイプだったので、仕事があればいいやって感じでしたね。ただ、一回やめるつもりだった時期もあったんです。
――そうだったんですか。
佐藤 演出に行きたくて悩んでいたんですよ。作画の能力に限界を感じ始めた頃に、演出も覚えたいしコンテも描きたいと思っていて。で、「やらせてくれ」と言ったら、丸山さんに「(演出家を)育てるつもりはない」と返されて。「じゃあ僕やめますから」って。
芦川 それは何歳くらいの頃なんですか。
佐藤 30代頭だったと思う。でも、結局他の作品の絡みもあって引き止められて。丸山さんからも「じゃあ一度やってみろ」と、『ぴたテン』という作品を宛てがわれたんです。
――それが初演出なんですか。
佐藤 初演出自体はOVAの『バイオ・ハンター』だったんですよ。監修が川尻(善昭)さんだったので、コンテもしっかり直していただいたし、演出助手的な感じで勉強させていただいて。その後はあちこちの会社から、自分でコンテ仕事を取りに行って。でも、マッドの中では作画スタッフだったので、演出仕事やコンテは回ってこなかったんですよね。それで本格的に相談して、さっきの話に繋がるんです。『ぴたテン』は、若干アンダーグラウンドの作品だったんだけど。
――ああ、そうですね。
佐藤 アニメは土曜日の午前中放映だから、「子供向けに振る」と言うので、その作り方で。僕自身は原作者の了解をもらった前提で作っていました……けど、当時は力技だったのかもしれません。そこで初めてテレビシリーズの監督をやったのですが、社内に班を作ってくれなかったんですよ(苦笑)。
――そうだったんですか。
佐藤 当時芝萬ビルの別フロアにマトリックスさんがあったんですけど、「そこに出すので、お前行って来い」と放り出されたんです。
――じゃあ出向扱いだったんですね。
佐藤 ええ。でもそこで『アカギ(〜闇に降り立った天才〜)』のキャラデザやってくれた梅ちゃん(梅原隆弘)に出会えたりもしたので、悪いことばかりではなかったのですが。で、僕は初監督だから、共同監督で川瀬(敏文)さんが立っていらして。でも、川瀬さんは一本目を見てからは「後は任せるわ」みたいな感じになって(笑)。結構好きなようにやらせてもらいましたけど。
――じゃあ演出の師匠ではないのですね。
佐藤 いや、わからないことがあったら相談に乗ってもらっていました。ただ、監督はどちらかというと経験値で培う部分が多いから。コンテを直す回数が増えたり、あと音響に付き合うのと、編集に付き合う回数で、経験値が積まれていくんです。自分もコンテは、何百本切ったのか覚えてないです。